2013年7月26日金曜日
駄文です、其の一
考えの整理のためにつれづれと記しておきます。
駄文です。
今回の展示のタイトルの中にある「気色(ケシキ)」、
辞書で意味を調べると
「物事の兆し、心の動き
また古語では趣や情緒」
と出てきます。
同じ音の「景色」が目で捉えるものなら
「気色」は気配を捉える感覚的なもの、なのだと思います。
ここ3~4年の間の作品は技法や手法は変わっているけど
奥にある表したいものは変わらないと感じています。
最初、「表したいもの」を「物語」とか「ストーリー」といった言葉を使ってきました。
でも途中で「何かそれは違う」と感じるようになりました。
「物語」や、一時期取り組んでいた「箱物」(でもこれはまたやるかも・・・)
だと「ストーリー」という枠が生まれてしまう。
この枠ができてしまうと作品がその中だけのものになってしまい、広がらない。
私にとって表したいものは自分の内面ではない、
「ストーリー」から抜け出したいと感じるようになりました。
じゃあ、何が気になっているのか?
物語的なものを表したいのではなくて、
その奥にある本質的な印象が、自分が気になっているものだと
作る中でふと気づきました。
いわゆる「物語」の本を読みながら感じる印象は
神社の境内や、森の中で何かの存在を感じるのと、
とても似ていると思います。
「気配の存在」
それは色々な時間や場所で感じることのできるもので、
その本質的なところ、源のようなものを捉えたい。
以前何かの雑誌で谷川俊太郎さんが
「正しい日本語を使うとかではなくて、
ただ美しい言葉を存在させたいだけなんだ。」
というようなことを仰っていて、恐れ多いですが
とても似たようなことを感じました。
自分でも非常に曖昧で分けの分からないことを言って
いるのは理解しているけど、今はそのように考えています。
考えて、作ってを繰り返してまた見えてくると思います、多分。
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